2007年03月03日

謎のシュメール文明 2

シュメール人とはいかなる民族なのか、それも謎に包まれている。シュメール人が、どういう民族で、どういう言葉をしゃべり、どこから来たのか? 一切わからないのである。
 シュメール語にしても、周辺民族のそれと何ら類似性が見られないのである。掘り出されたシュメール人を描いたと思われる像は、どれも目が異様に大きくあご髭をはやしているのが印象的だ。
 もう一つ、彼らの出所を複雑怪奇にする理由は、シュメール文明の基になる文明の痕跡が見当たらないことである。
 つまり、いくら、発掘を重ねても、それ以前の遺跡が見つからないことである。どういう文明にも、その発端となる文明は存在するものである。それが、シュメール文明に関しては、それが見当たらないのである

何よりも不可解なのは、シュメール人が、使っていた暦だ。それは、月の満ち欠けで、年月をはかる太陰暦と呼べるもので、世界最古の暦(こよみ)と言えるものだった。彼らの用いた暦は、驚異的とも言える恐ろしく正確な暦で、日食、月食のタイミングを始め、様々な惑星の事細かな動きまで詳細に予想出来たのである。さらに、信じられないことには、2万5920年かかって地球の地軸が円を描くという歳差運動(さいさうんどう)の周期すら知っていた! メソポタミアの地に登場して、たかだか2千年ほどで、どうして、そのようなデータがわかったのだろうか? 
 記録によれば、シュメール人は、当時、すでに何百もの天文用語を使っていたことも判明している。彼らがどのようにして、そのような高度な天文学を持つに至ったのかはわからない。彼らは、世界最古とも言える60進法を基本とする数学を確立し、それに基づいて高度な暦をつくり上げたのである。
 かくのごとく高度な天文知識に加えて、恐ろしく高度な彼らシュメール人の文明が、何を手本にし、また何に影響を受けたのかは不明である。ただ言えることは、シュメール文明は、紀元前3800千年ほど前に、奇跡と思える暦、高度な数学、複雑な社会機構や合金技術を持った状態でいきなり歴史に登場して来たということだ。これは何を意味するのだろうか? シュメール文明が、古代史最大の謎と言われている所以がここにあるのだ。
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2007年02月28日

謎のシュメール文明 1

紀元前5千年頃、後にメソポタミアと呼ばれるユーフラテス河の沿岸地帯に、ある農耕民族が住み着いた。彼らの住み着いた土地は、耕作や放牧に適しており、近くの湿地帯では、魚と鳥が常に豊富に得られるという生活するには理想的な環境だった。
 その農耕民族は、その後千年以上そこに住み着き、泥でレンガをつくって街をつくり、中近東で最も繁栄した地帯となった。ただ、彼らは、文字を持たなかったので、詳しい記録を残すことはなかった。
 紀元前3800年頃、どこからかシュメール人と呼ばれる民族がやって来ると、信じられない大変化が起こった。文明の一大ブレークとも言うべき現象が起きたのである。メソポタミアの地は、わずかの間に、前例のない大繁栄を記録した。そして、空前とも言える政治権力が打ち立てられたのである。それは、美術、建築、宗教は言うに及ばず、社会機構、日常の細かな慣習から楔形文字の発明に至るまで、それらは、すべて、彼らシュメール人の成せる画期的偉業であった。世界最初と言われる船や車輪つき戦車なども、この頃、シュメール人によってつくられたのである
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2007年02月23日

アトランティス大陸

約12,000年前、大西洋上に存在したという大陸。その上では優れた文明が栄え、領土拡張に熱心であり、地中海にあった諸国を盛んに攻撃していた。だが、ギリシア軍との戦闘中に、大陸は一夜にして海底に沈没してしまったという。
 ギリシアの哲学者プラトン(前427?-前347?)がその対話編『ティマイオス』と『クリティアス』で初めてその実在を主張した。プラトンはヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の彼方にある「島」としか書いていないが、その巨大さは充分「大陸」と呼ぶに値する。その後、アメリカの作家・政治家イグネイシャス・ダンリー(1931-1901)が研究書『アトランティス』(1882)を発表。以降、アトランティス大陸の研究に一大ブームが巻き起こった。この伝説は現在に至るまで多くの支持者を得ている。
 だが、地質学的には、少なくともそのような大陸が大西洋に存在したようなことはありえず、また、その実在を示す地質学的・考古学的証拠も見つかっていない(これはレムリア大陸やムー大陸についても当てはまる)。
 現在最も有力視されている仮説に、エーゲ海に浮かぶ火山島・ティーラ島(サントリニ島)の大噴火とこの伝説を結びつけるものがある。ティーラ島は紀元前1,400年頃大爆発を起こし、当時クレタ島で繁栄していたミノア文明を壊滅させた。一部の学者はこの破滅的な大噴火の記憶がアトランティス伝説のモデルになったと主張している。だが、この仮説には、島の大きさにしろ位置にしろ、プラトンの原文と全くそぐわないという難点が残されている。

 だが、この説の最大の謎は、当のプラトン以外にこの伝説を聞いたり記録したりした者が、誰一人として見当たらないことにあるだろう
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2007年02月22日

パレンケ遺跡のパイロット彫絵

1952年メキシコの考古学者ルイリエールによって、パレンケ碑銘の神殿の地下から発見された、パカル王の石棺の蓋に描かれた彫絵。

人間が乗り物に乗り、手には操縦捍を握り、足はペダルのようなものに乗せているように見える。

また、後部から炎が激しく吹き出しているかのように見えることから、現代のロケットを模写したかのようであり、これは、そのロケットを操縦するパイロットを描いているのではないかと言われている。しかも、周囲の文字を解読したところ、この石棺がいつ開かれるかという予言が書いてあり、それがピタリと的中していたというのだ。そのことは、当時の彼らはすでに高い科学という論拠のひとつになっている。と推測されている。

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2007年02月17日

沖縄の海に記された神々の爪痕

与那国島(よなくにじま)は、沖縄本島から隔たること500キロ、南西諸島の最先端に位置し、日本で最も西に位置する島である。この島は、東西10キロ、南北4キロの紡錘型をした小さな島で、台湾までは約110キロほどしか離れていない。人口は1800人ほどで、周囲に波風をさえぎるものは何もなく、冬には、強い北風と荒い波が島にもろに打ちつけ、生物には過酷な環境である。








 1986年、この島の南側にある新川鼻(あらかわばな)岬の沖合い100メートルほどの海底で、明らかに人為的に造られたと見られるテラスや階段、排水溝らしきものが数多くが発見された。その後、発見した地元のダイバーによって遺跡ポイントと名付けられたが、それ以来、大きな反響を呼び起こすこととなった。そして、この海底遺跡を巡って様々な説が唱えられるようになったのである
グスクと呼ばれる城塞だという説、神殿、水中の墓、石切り場だったという説から、沖縄は、かつて地上にあった超古代文明の名残りだったという説まで、また与那国島の海底遺跡こそムー大陸の一部だったという説など、さまざまな熱き論争を巻き起こす火種となったのである。続きを読む
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2007年02月12日

カブレラストーン

これは1961年に南米ペルー、アンデス地方の
イカという村で大量に発見された
「カブレラストーン」と呼ばれる石である。
この石には驚くべきことに
約6500万年前に絶滅したはずの
恐竜たちの絵が描かれているという。
また人間が恐竜に乗っている絵や
餌付けしている絵、さらには
人間が武器を持って恐竜と戦っている絵もあるという。
これらの絵は人間と恐竜が共存していた事を示している。



このカブレラストーンは分析の結果
1万年以上前に制作された物であることが分かっている。
ということはカブレラストーンが正しければ
1万年前まで恐竜が生息していた事になり
現在の歴史が変わる発見となる。

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また心臓手術や頭部手術の様子、世界地図、
天体望遠鏡で宇宙を観測する人などが
描かれている石も見つかっている。

kabure4.jpg

これらが本当なら、かなり高度な技術を持っている文明が
1万年以上前に存在していたことになる。
これも今までの世界の歴史が変わる発見になる。
とりあえずスケールの大きいオーパーツである。
カブレラストーンの研究は現在も行われているという。
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2007年02月10日

1千トンの超巨大石柱運搬にまつわる謎 2

巨石は、南西に700メートルほど離れた採石場から切り出され、運ばれたと考えられている。

問題なのは、古代の技術でこのような恐ろしく重いものをどのようにして運び、いかにして持ち上げたのかという点である。これらの巨石が古代人の手によって運ばれたとは思えないのである。しかも、古代にそのような運搬技術があったということも信じられないのである。
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 現代においても、通常のクレーンではびくともしない。ただ少数ながら、この巨石すらも持ち上げることの出来る特殊重クレーンは存在する。

しかし、持ち上げることは出来ても運搬することなど到底不可能なのである。では、いかにすれば、この巨石を持ち上げ、移動し、神殿の基壇に据え付けることが出来るのか?

いずれにしても、セム族がバールベク建設を始めた当時には、このような技術などあろうはずもなく、鉄製の道具すらない時代であった。

ほとんどが人力に頼らざるを得ない時代だったのである。
 ピラミッド建設のように木の丸太を並べてローラーにすることも不可能だ。これほどの重量になると木の丸太は、いとも簡単に押しつぶされてしまうからである

考古学的データを引用すれば、1トンの石を1600メートル移動させるのに16人の人間が必要とされている。

これをベースに考えてみると、一個のトリリトンを運ぶのに1万5千人ほどの人力が必要になる。しかし、これに耐えうる強度のロープや1万5千人という驚異的な数の人員を効果的に配置する方法など考えると不可能に近い。

例え、仮に目的地まで引っ張って行くことが出来たとしても、どうして、10メートルも空中に持ち上げて乗せることが出来るだろう?

 恐らく到底・・・否、現実的には出来そうもない話である。しかも、周囲には、そのような工事の跡も残されていないのである。

すると、この方法で運搬したとは考えられない。では、いかなる方法でこれらの巨石を運び、持ち上げることが出来たのか、現在に至っても、未だに納得のいく答えは見つかってはいない。
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posted by yutanpe at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 超古代の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

1千トンの超巨大石柱運搬にまつわる謎 1

レバノンの首都ベイルートから北東に85キロほど走ったところに、レバノン山脈とアンチレバノン山脈に挟まれたべーカー峡谷という場所がある。


balbek_1.jpg


その場所は、バールベクと呼ばれ、ローマ帝国時代の一大聖地があった場所だ。

その中心には、かつて、とてつもなく巨大な神殿がそびえたち人々の心に畏怖の念を抱かせていたと言われている。

 その大神殿は、古代世界の不思議に数えられたほどの偉大な建造物で、1千個以上の巨石を使って建設されていた。

この大神殿は、ジュピター、バッカス、ビーナスと呼ばれる3つの神殿から成り立っていた。

とりわけジュピター神殿は、途方もなく巨大な建造物で驚愕に値するほどであったという。

ここには、ローマの神々の中の主神とされる全能の神ジュピターが祀られていた。

この大神殿は、今から2千年ほど前、ローマ帝国が帝政に入って間もない頃、ローマ人によって建設されたと言われている。

 だが、残念ながら、幾度かの大地震で破壊され、今では、6本の石柱しか残っていない。

しかし、それでも一本が直径2.2メートル、高さは、優に20メートルを越す壮大な石柱を見るだけで当時の巨大さは忍ばれるはずだ。

当時は、このような石柱が54本も林立して巨大な神殿の屋根を支えていたのである。

その規模の大きさは、ギリシアのパルテノン神殿をはるかに凌駕し、見る者に大いなる衝撃を与えて止まなかったと言われている。

まさに、世界に富と権力を誇示しようとするローマ人の姿勢がそこに読み取れるものであった。
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2007年02月08日

巨石に秘められた古代の不可思議な謎

前記もしたけれど中米のコスタリカの石球といい、世界にはもっと不思議な巨石遺跡があります。

その巨石遺跡の中で、どうしても理解に苦しむような遺跡が発見されることがある。

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いくら頭をひねってそれらしい理由をこじつけようとするのだが、答えにはならず、ますます終わりのない謎解きの底なし沼にのめり込んでいくような気分にされてしまうのである。

 ペルーインカ帝国の都クスコの北東に、サクサイワマンの城壁がある。その城壁のすぐ近くの山腹の火口に1個の巨石が横たわっている。

 それは2万トンは優に越すと思われるほどの巨大なブロック状の形をした岩石である。

しかし、それが、ただの岩石ではない証拠に、その巨大な岩石の周囲にはらせん状の不思議な模様や無数の穴が彫られているのである。
それらは明らかに人間の手によって加工されたものと考えられている。

そして、最もきわめつけの謎は、この巨大な岩石がさかさまの状態で置かれているということなのだ。

 すなわち、階段が天井から下へと続いている。決して上ることの出来ぬさかさまになった階段だ。

さかさまに置かれているのはいかなる理由によるものか不明である。
 あるいは、とてつもない巨大なエネルギ−でひっくり返された結果なのだろうか?

 この巨大な岩石は人間の手によって、別な場所で加工され、この山の山腹まで運ばれたと想像されていが、そうすると、いかなる技術によってこの巨大な岩石を動かしたのであろうか?

  この巨大な岩石を目の前にする時、これまでの通常の概念や常識といった存在が根底からくつがえされ、どんな空想力でさえ無力だと感じてしまわざるを得ない。  

 この疑問もさることながら、この巨石のすぐ脇には超高温によって岩が溶けたような跡がある。

この巨大なブロック状の岩石となんらかの関係があるのだろうか? まさしく、謎だらけで、途方に暮れてしまう瞬間である。
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2007年02月07日

ネアンデルタール人の弾痕

この頭蓋骨は、1921年にアフリカのザンビアで発見されたネアンデルタール人の化石である。

 

ネアンデルタール人といえば、人類の祖先といわれていることで有名だが、頭蓋骨の左側側頭部に、弾丸が貫通したような痕跡が発見された。ヨーロッパで銃が発明されたのは14世紀である。

 

なぜ10万年前の化石人骨の頭蓋骨に弾丸の痕が残っているのか?発見場所は地下18メートルの地層からである。考古学者に持ち込まれたが、説明がつかず、ベルリンの法医学者の専門家が調査に乗り出した。

ご存知の通り、法医学者は死体を解剖して、死因の原因究明を担当する専門家である。

15.jpg 

彼らが出した結論は、「高速で発射された弾丸が左側頭部に入り、反対側に貫通して破壊された痕らしい」というものであった。たしかに銃で撃った時に出来る痕と同様に、弾丸が入ったと思われる穴は小さく、弾丸が貫通して抜けたと思われる反対側の損傷は著しく激しいのが見て取れる。
posted by yutanpe at 14:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 超古代の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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