2007年02月01日

謎の地底王国アガルタ 2

アガルタへの入り口は、チベットの首都、ラサにあるダライ・ラマが住むというポタラ宮殿内にあると言われている説まである。その出入り口は、ラマ僧らによって厳重に管理されているというのである。

 そのとてつもなく巨大な宮殿は、13階建てで、部屋数は千を越し、山全体を覆うようにして建てられている。そして、ほとんど内部は公開されたこともなく、今なお、秘密のベールに包まれているのである。
 確かに、この得体の知れぬ巨大な宮殿の地下がアガルタの入り口につながっていると言っても、おかしくはないムードを漂わせている。


ラサにある巨大なポタラ宮殿
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2007年01月24日

九戸政実

九戸政実は武将としての器量に優れており、九戸氏は政実の代に勢力を大幅に広げ、南部氏宗家に匹敵する勢力を築いた。

その立場は南部氏宗家から自立した大名ではなく、その家臣三戸南部氏の家臣であったと一般には認識されている。

しかしながら、中央の室町幕府の認識はあくまでも独立した大名であり、南部氏と共同歩調を取っている勢力として九戸氏を見ている。

事実1563年に足利義輝が室町幕府諸役人の名前を書き出た資料の中にも南部晴政と並んで九戸政実が記入されている。

以上のことから、九戸氏と南部氏の関係は、従来言われるような主従関係ではなく、国人同士の対等同盟というべきであろう

九戸城.jpg
九戸城跡


1582年、南部晴政が病死すると南部氏は晴政の養子・信直と実子・晴継の後継者を巡る激しい家督争いが始まることとなる。

晴政の跡は、実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。

急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、南部
晴政の養嗣子でもあった南部信直と、一族で最有力勢力の九戸政実の弟で、南部晴政の娘婿である九戸実親が候補に挙げられた。評定では九戸実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は南部信直が後継者となることが決定する。

九戸政実としては、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である南部信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還することとなる。続きを読む
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2007年01月16日

超古代文明の遺物!? アンティキテラの歯車

1900年。ギリシア・アンティキテラ島沖合の水深50mの海底から奇妙な形をした青銅製の塊が4つ発見された。

一番大きな塊は縦およそ17cm、横およそ15cm。海水によってその表面は腐食が進んでいたが、微かに「歯車」のような形が確認できた。

一番大きな歯車は直径12.7cm。一部に古代ギリシア文字で、暦に関する記述や「星座名」が確認できた。

同じ場所から見つかった他の遺物などから、それは、紀元前80年頃の古代ギリシア文明のモノであることは明らかであった。
eb9fa4ac-s.jpg続きを読む
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2007年01月13日

仏教都市平泉

都市に寺社仏閣を作ることはすなわち、当時の最先端の技術や職人が運び込まれ、多くの学僧が集まる。これにより、始め前九年・後三年戦死者供養のための仏教が、平泉の文化を急速に開花させる仏教へと発展していく。
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2007年01月12日

平泉文化

後三年の役で一人生き残った清衡は、安倍・清原の両勢力を取り込み、陸奥六郡・出羽三郡の実権を掌握する。そして父経清の姓「藤原」を名乗り都の藤原摂関家に接近する。都にいわば「賄賂」を贈ることによって、陸奥の内政の不干渉を得た。

この地で彼の戦乱の半生を振り返り、戦乱に散った安倍氏・清原氏を供養するために、一大伽藍の造営に着手する。これが中尊寺を中心とする金色堂、経堂、二階大堂などの寺院群となる。
 金色堂は始め阿弥陀堂であったものが、清衡の死後、藤原氏の葬堂として機能する。

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2007年01月11日

【後三年の役】

前九年の役の後、奧六郡の権力を握ったのは源氏ではなく清原氏であった。清原氏は本拠地出羽から衣川に進出し、戦の褒美として賜った安倍氏の女達を妻に迎えた。清原氏も例外無く、安倍氏の女を妻に迎えた。
それから約二十年後、清原氏に家督相続の問題が起こった。
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2007年01月06日

【前九年の役】1

【鬼切部の戦い】
一〇〇〇年頃、陸奥の北部の郡は俘囚の長が郡司となって、各郡を治めていた。そのうちこのころ勢力を拡大し、奧六郡(胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手)の郡司を兼任していたのが安倍氏であった。

そして、その勢力が胆沢と磐井との境、衣川をいよいよ越えると、当時の陸奥守藤原登任は、「賦貢しない」とか「傭役を果たさない」など理由を付けて秋田城介平重成とともに兵を発する。

これを察知した安倍氏は兵を挙げ、鬼切部で官軍と衝突する。

 鬼切部の位置については宮城県鳴子の奧にある鬼首が有力な説だが、位置的に考えると、安倍氏が伊冶城で官軍の兵と衝突せずに、鬼首にたどり着くことは考えがたい。

二つ目の候補地として、岩手県一関の鬼越沢が考えられる。ここは衣川の支流真打川の上流に隣接しており、旧道もこの付近にある。


 この鬼切部の戦いに安倍氏は大勝利を治めた。これに驚いた朝廷は陸奥守兼鎮守府将軍に源頼義を選出し陸奥国府に向かった。ところが、この年、国母藤原彰子の大病治癒のため大赦令がでる。これにより、安倍頼良は大いに喜び自ら名を頼時と改め、服従の意を表した。


 普通八逆(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義)の罪はどんな大赦令が出ても許されることはない。このことから鬼切部の戦いは「反逆」ではなく、藤原登任が挑発したことによっておこった「私闘」だったと解釈される。

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2007年01月05日

アテルイ 2

エミシと呼ばれた人たちの中で、
王権に対する抵抗の意思をもっとも強く
発現させた一人に、北方の勇者アテルイがいます。

アテルイは8世紀末の東北古代史に登場する人物で、
胆沢地方(現在の岩手県奥州市)において、
垣武天皇の命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂を迎え撃ったエミシの武将です。

垣武は怨霊におびえ遷都を繰り返したことで有名ですが、
また、エミシ攻略に固執し執念を燃やした天皇でもありました。


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2007年01月04日

アテルイ

史料からみるアテルイ

アテルイ(? - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者である。

789年に胆沢(岩手県奥州市水沢区)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。

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2006年12月26日

古代日本は技術大国だった!! 

戦時中の日本は、現在アメリカが保有する原子力空母や原子力潜水艦に匹敵する超大型艦を建造保有していたんです。

つまり、日本は「巨大」化技術でも世界の最先端を誇っていたんです。そして、これらの技術が数千年以上前の古代日本に既に確立されていた続きを読む
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2006年12月25日

古代日本は技術大国だった1  

本当に超古代に、「天之浮船」が空を飛び、超合金「ヒヒイロカネ」を精錬した様な高度文明(現代文明に勝るとも劣らない)が存在したのでしょうか? 

もし存在したのなら、どうしてその様な高度文明が崩壊してしまったのでしょうか続きを読む
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もう一つの日本国 2

安倍氏も又、長髄彦同様、決して滅び去ってはいなかったのです。

棟梁・安倍貞任(さだとう)は戦死しましたが、嫡男・高星丸(たかあきまる)は密かに宮城から津軽十三湊(とさみなと 現・十三湖)へと逃れ、安東氏として復活したのです。


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もう一つの「日本国」があった

近世まで東北の地に紛れもなく実在したのです。そして、その証拠の一つが1562年、ベリユによって製作された「世界地図」です。

この地図で日本は「IAPAM」(JAPAN)の名で描かれているのですが、よく見ると、津軽地方の南に「境界線」が引かれており、境界線の北には「BANDOY」(安東国)と記されています。

さて、この「BANDOY」が何なのか? 答から言うと、これこそもう一つの「日本国」だったのです。つまり、境界線は「国境線」だった訳で、「BANDOY」は「IAPAM」とは別の「独立国」として、当時のヨーロッパ人に認識されていた証拠と言えるのです続きを読む
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2006年12月23日

十三湊

十三湊は、この辺一帯の豪族だっ た安東氏、安倍氏などに関わる歴史が盛りだくさんな場所である。津軽には、中国大陸から着たアソベ族とツボケ族が いて、そこに邪馬台国の国王だった安日彦と長髄彦がおちのびてきて長髄彦はここを制圧して新たにアラハバキ族を つくって、それが関東にまで勢力範囲を広げ大和王朝を脅かすほどの存在になっ たそうである。その時中心にいたのがそれらの子孫にあたる安倍氏なのです。しかし前九年の役で安倍氏が滅び、その時逃れた安倍氏の遺児が安東氏を名乗り 、また東北を支配。そして、十三湊を中心とした安東水軍ができ、外国との貿易など盛んに行い最盛期を迎えることになる。しかし安東水軍は十三湊を襲った大津波によって一夜で消滅したといわれている。そして、安東氏は南部氏に攻められ、結局津軽からでていくことになった。
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